こんばんは、Local Tourist(ロカツリ)です。
今夜も独り言に付き合ってくれるみなさん、ありがとう
3月は別れの季節と言われるのは、卒業式が行われるからなのだろうか。
私も新たな未来へ備える為に、春を目指して準備をしています。
今の会社に所属してからは、大人になってから意識しなくなった別れと始まりの季節をまた意識するようになりました。
別れと始まりの境目がはっきりしてて、今日でさよなら、明日からこんにちは!のように一斉に人が入れ替わるので、まるごと世界が入れ替わったかのように感じます。
環境は人によって変わる。自分次第で環境も変わって、周りの人にも影響を与えるんだなと感じます。
さて、今日は別れをテーマにお話ししたいと思います。
別れについて考えた時、ふとこの曲が流れてきました。
ワルツ第9番変イ長調Op.69-1【告別】
ショパンがマリアに贈った愛に溢れるメロディーです。
愛する二人が立場の違いによって引き裂かれてしまった悲しい恋から名前は【告別】もしくは、【別れのワルツ】と呼ばれています。
一か月と短かった交際期間中作成されたこの曲。
目を閉じてこの曲を聴いた時、音色からは別れは感じなくて、むしろ幸せな気持ちで弾くショパンの横、和やかでニコニコした表情でそれを聴いているマリアの様子が目に浮かびました。
両親による反対で結ばれなかった二人、ショパンは悲しみに打ちひしがれ、マリアへの手紙を束ねこの曲譜も二人の大切な思い出として、肌身離さず持っていたとされます。
なんてロマンチックなのでしょう。
作品背景をもっと知りたい人はこちら、ショパン専門サイトへ飛んでみてください。
http://www10.plala.or.jp/frederic3/work/waltz.html
サイト作者のショパンへの愛が溢れているのが伝わってきて、ショパンの曲を弾きたくなる。
マリアはショパンと恋仲と噂された3人の女性のなかでも、生涯愛された女性だとも言われています。
短い一生のうちに、このような恋を体現できたこと自体を幸せと呼ぶのか、悲しみと呼ぶのか。
たった一瞬の出会いだったとしても、それによって人の人生は変わってしまうもの。人と人との出会いって本当に不思議。
その後、他の男性と結婚したマリアの結婚生活は幸せなものではなかったと言われています。
マリアもショパンを心の中で愛し続けていたとしたら、マリアの夫は彼女が自分へ向けてない愛を感じ取った故かもしれないし、そもそも愛がなかったのかもしれないし、理由はわからないけど、マリアにとってもきっとショパンに愛され続けて幸せだったのかな。それとも生きているのに愛する人の傍にいる事ができない辛さを感じていたのかな。
一層その記憶を消し去ってしまいたい。とも思うかもしれません。
どこかに居ると分かっていながら、傍に居れない苦しみ。
少なくとも二人の想い出として大切に守ってきた曲が死後200年、300年とこれからも悲恋の曲として弾き継がれていくとはショパンも驚いていることでしょう。
究極な質問としてよく挙げられるのが、「死んで会えなくなるほうが悲しいのか」「生きているのに会えないのが悲しいのか」どちらが辛いか。
私は断然後者です。
「死んで会えなくなるほうが悲しいのか」を経験したことがあるからこそ、後者の苦しみの方が強いと言い切れます。
愛し合っているのに、どこかにいると分かっているのに会えない。
愛し合っているのに、他人のふりを続けなければならない。
愛し合っているのに、他人への愛を目の当たりにする。
この辛さは相手が生きているからこそ味わうもの、味わえるものなのです。
かと言って、「死んで会えなくなるほうが悲しいのか」もそれと同等に心が切り裂かれる想いがします。
後悔の念から来る想い、相手の分まで幸せにならなければとどこから湧いてくる罪悪感は一生不随するもの。
でも、悲しみに奈落の底はなく、時間が癒してくれるのです。「あぁもうこの人は居ないんだ。」とこの事実だけはいつかは受け入れることが必ずできるようになる。イヤでも現実がそう教えてくれる。
だから、期待することはしない。
でも、生きていれば相手に期待してしまう。事実、可能性は0ではないから。生きていればね。
クラシックは昔から大好きなので、また話をしよう。
そんな私はどうしても弾きたい曲があって、ピアノを2021年の終わりに購入しました。
大切なある人にどうしても一番目に聴いてもらいたくて、練習をしようと買ったもののなかなか想うように練習できていない。
この聴いてもらいたい気持ちは、ショパンがマリアを想って作曲する気持ちと似ているかもしれない。
そう思うと、もう少し大切な人を想う時間を増やしていきたいものです。
私も、大切な人に愛のメロディーを奏でられますように。
独り言に付き合ってくれて、ありがとう。
おやすみなさい。お疲れ様